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    以下の内容をよくお読みになり、前の画面 にお戻りください。 お探しのコミュニティは存在しないか、削除された可能性があります。 コミュニティが削除された場合、下記いずれの理由に該当します。 •コミュニティオーナーが削除した •コミュニティオーナーがniconicoを退会して30日以上経過した •コミュニティ作成後30日以降も、メンバーがオーナー含め1名のみ 自由(じゆう)とは、 他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいう。哲学用語。 目次 [非表示] 1 「フリーダム」と「リバティ」 2 日本語訳について 3 自由主義 4 近現代における自由 5 哲学 6 東洋における自由 7 さまざまな自由 8 脚注 9 関連項目 「フリーダム」と「リバティ」[編集] ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』(1833年),自由を寓意的に表した代表的な絵画。1789年8月26日人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)第4条は「他人を害することのないもの全てをなし得ること」を「自由」と定義した。[1] 「フリーダム; freedom」と「リバティ; liberty」は、ともに自由と訳される。現在、この2つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いはいくらか異なっている。 フリーは古英語の「frēo」に由来する。これは古インドヨーロッパ語の「prijos」や「prēy-」、あるいは古ドイツ語の「frijaz」に起源をもち「好む、愛」の意味を持つ。北欧神話のフレイ、フレイヤも同じ語源による。古アイルランド語の「ríar」はウェールズ語の「rhydd」と対応し現在の英語の「free(自由な)」に直接対応している。古代ギリシア語では「πρᾶος(praos, 温和で、優しい)」[2]。気ままさや傲慢さが含意される場合がある。 一方でリバティはラテン語「liber」の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から、英語の「liberal(形:自由な)」や「liberty(名:自由)」の語源となった。自由主義の「liberalism」はこれによる。また「liberate(動:解放する)」、「liberator(名:解放者)」、「liberation(名:解放)」も同じ語源による[3]。こちらでは自由の消極的側面 (しなくてよい)が強調される。「liber」は古英語に入り「leod」となり、こちらは「leader」の語源とされている[4]。 両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。英語「freedom」と「liberty」の用法にも残っているが、近世までは特権を意味する語であった。民衆の持ちえない権利を有している状態が「freedom」または「liberty」であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる高貴なる者の特権と定義され、但し書きで「一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている」と言及されている[5]。 日本語訳について[編集] 穂積陳重の「法窓夜話」によれば、加藤弘之から聞いたこととして訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初であるとするが、文献上では文久2年初版・慶応3年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎・著)に紹介され、慶応2年初版の「西洋事情」(福沢諭吉・著)にも訳字が見られるとする[6]。鈴木修次によれば初出は森山多吉郎、福沢の西洋事情により広まったとする[7]。慶應義塾のデジタルギャラリによれば福沢による訳語とする[8]。 「自由」は古典中国語では「後漢書」、日本では「続日本紀」まで遡ることができる[9]が我儘放蕩(わがままほうとう)の意味であった。徒然草に「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」(60段)[10]とある。江戸時代の教育論の書である和俗童子訓には「殊に高家の子は、物事豊かに自由なる故に、好む方に心早くうつり易くして、おぼれ易し。」とあった[11]。 福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、原語の意義を尽くさないとする。加藤弘之は慶応4年の「立憲政体略」において「自在」と訳し、津田真道の「泰西国法論」でも「自在」と訳されたが、福沢や中村敬宇によるミルの日本語訳「自由之理」により自由が定着した。穂積によれば「自由」なる語・「自由」なる思想の開祖は「実に福沢先生にあると言うてもよかろうと思われる」とする[12]。 自由主義[編集] 詳細は「自由主義」を参照 自由主義とは「自己決定権に制限を加えることができるのは危害原理のみである」という立場である。加藤尚武[13][14]によれば、自由主義とは 1.成人で判断能力のある者は(valid consent, 有効な同意) 2.身体と生命の質を含む「自己のもの」について 3.他人に危害を加えない限り(harm-principle, 危害原理) 4.たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも(the right to do what is wrong, 愚行権) 5.自己決定の権利をもち、自己決定に必要な情報の告知を受ける権利がある(autonomy, 自治権)、とするもの。 近現代における自由[編集] 近代における自由の概念は、他者の意志にではなく、自己自身の意志に従って行為することとして捉えることができる。この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。社会契約説では、政府による統治がその正当性を獲得するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利(革命権)があると説かれている。 自由はまた他者の自由とも衝突する。他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。 エーリヒ・フロムは、ナチズム・日本軍国主義が台頭していた1941年に世に問うた著書『自由からの逃走』の中で、孤独と無力感にさいなまれた大衆が、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになると記した[15]。 アイザイア・バーリンは、「二つの自由概念」において、他者から拘束を受けない消極的自由と、自己自身に対して自己実現を課す積極的自由とを区別したが、フロムが消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由の概念も、他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義へ繋がるとしている。 哲学[編集] イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において自然の因果系列とは独立にあらたな系列を始める絶対的開始の能力として超越論的自由を論じた。この超越論的自由は理論理性においては単に消極的に想定可能であるだけであったが、『実践理性批判』においては道徳法則に自ら従う実践的自由を積極的に論じた。 戦前に活躍した唯物論哲学者戸坂潤は著書「日本イデオロギー論」中、「文学的自由主義の特質」において、自由主義についての考察と絡めて「自由についての問題は哲学的でも文学的でもなく経済的な範疇から生じた」と指摘した。 東洋における自由[編集] 日本では往生楽土、楽市楽座の語に見られるように、「楽」を「自由」という意味で使う用法があった。 中国では本来、「自由」は、好き勝手や自由気ままという意味で用いられた。日本も当初は、二条河原の落書の「自由出家」や「自由狼藉」のように、中国と同じ用法で用いられていた。 福沢諭吉がリバティを訳するに際して、仏教用語より「自由」を選んだ。初めは、「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎると考え、あらためた。朝鮮語や中国語でも「自由」という単語が使われているが両言語ともに日本語と同様、近代以降元の漢文由来の意味より、日本語から流入した日本人による訳語としての意味が確立した。 さまざまな自由[編集] 日本国憲法には以下のような自由権が謳われている。 精神的自由 思想・良心の自由 信教の自由 学問の自由 集会の自由 結社の自由 表現の自由 経済的自由 居住移転の自由 職業選択の自由 外国移住・国籍離脱の自由 人身の自由 奴隷的拘束・苦役からの自由 令状なき不当な勾留など、正当な法的手続を踏まない不当な拘束からの自由 勾留拘束に当たっての法定手続の保障 自由権の濫用はしてはならない(憲法12条) 権利の濫用はこれを許さない(民法1条3項=罰則の適用)。
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    ブリタニカ百貨事典とは・・・1768年からエディンバラでアンドルー・ベル、コリン・マックファーカー、ウィリアム・スメリが共同で100分冊を週刊で発行したのが始まりである。これは、イギリスの教養を要求するブルジョワジーに受け入れられて成功し、完成後の1771年に3巻にまとめて初版とした。大項目主義をとり、一流学者の44論文と単行本からの抜粋で構成された。 第10版は丸善とのタイアップで日本にも輸入され、大英百科全書として紹介された。1902年[1]発売記念価格として通常の半額[注釈 1]での販売、書籍では初めてとなる月賦での分割払い(通常価格になってからは一括払いのみ)、そして新聞の一面広告などのキャンペーンを行った。1906年にも、増補版の出版を機に同様のキャンペーンを行っている。伊藤博文、後藤新平、新渡戸稲造、徳富健次郎、犬養毅など各界の著名人が買い求め、広告でもそれを誇示していた。 1897年にアメリカ人のホレース・エバレット・フーパーが版権を入手し、第9版以降を刊行。1928年から版行権はシアーズ・ローバック社に移り第11版が刊行された。第14版で大規模な改稿を終わり、1936年以降は必要部分を改稿する形をとった。1938年からは旧版所有者を対象にして年鑑を発行した。 1941年、シアーズ・ローバック社からシカゴ大学に版権が寄贈され、ウィリアム・ベントン基金の元で刊行が続けられたが、1996年1月にスイスの実業家ヤコブ・サフラが版権を買収している。 第15版は全面改稿される形で1974年に発行された。この版は、日本で翻訳され、項目の追加・改訂を行った後、「ブリタニカ国際大百科事典」として日本で発売された。原典はその後の83年に改訂されている。 現在は第15版(全32巻)が市販されている。CD-ROMやDVD-ROMの形でも販売されている。 しかし2003年以降、冊子形式の日本語版の発行はされていない。 1999年10月19日から、オンラインによる全文検索サービス『ブリタニカ・ドットコム』を開始。当初無料であったためアクセスが殺到しサーバがダウンした。2001年から年間50ドルの使用料が必要となっている。 2006年6月1日からは大学や図書館向けに『ブリタニカ国際大百科事典』オンラインデータベースサービス「Encyclopædia Britannica Online Japan」(BOLJ)を開始した。 2009年1月23日に、『ブリタニカ・ドットコム』の修正案を利用者が提示できるようにするとした。ウィキペディアとは違い修正案は、編集者のチェックを受け反映されることになっている。匿名ではなく寄稿者リストに名前が載ることになるため、修正案の提出には本名(フルネーム)と、連絡用メールアドレスが必要となっている[2]。 2012年3月、現行の2010年度版をもって244年続いた印刷版の発行に幕を下ろすことが発表された。 今後は電子版のみの発行となる。
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    おもちをくわえて、箸で引っ張ると うにょ~ん と伸びます。 伸びないおもちはだめなおもちです。 今までの道のり------------------------------------------------------ 1941年 スペースインベーダーにあけくれる。 1942年 初めて秋葉原に行く 1943年 初めてゲーム攻略本(スペースインベーダー)を買う 1944年 インベーダーのテーブル機が50万だと知る。小学生には無理とあきらめる 1945年 モデルガンにはまり、池袋の公園でバンバン撃って遊ぶ。 1946年 サンシャインシティに隣接している噴水公園になる前の空き地で、ロケット花火を撃ちまくって遊ぶ。 1947年 池袋ー大塚駅間の線路に降りて側溝にいるザリガニをとって遊ぶ。(ストライキ中) 1948年 スターウオーズが流行りジュースの王冠に10円とか50円とかのくじが付く 1949年 王冠集めに池袋のボーリングセンターやゲームセンターパチンコ屋に磁石を持って行き、栓抜き箱の中の王冠を回収に走りまわる。 1950年 「タイムボカンシリーズ」にはまる。 1951年 「うる★やつら」に、はまる。 1952年 本屋でプログラムを入力すると遊べる電卓があると知る。 1953年 NHKパソコン入門というテキストを購入。 1954年 FM8のバブルメモリーとは何!と疑問に思う。 1954年 月刊誌I/Oに掲載しているゲームリスト入力でダンプリスト片手入力のエキスパートになる。 1955年 アップルのクライストンマナーにあこがれる。 1956年 部活の先輩にモニターを奪われ、モニターなしでBASICリストの入力をする。 1957年 MZ80の表参道アドベンチャーにはまり、嘘英語を習得 1958年 ア・スキーに掲載されたクワルティルカで発狂する。 1959年 FM8、PC-6001、MZ80のプログラムテープを聞くだけでどのマシンのソフトか分かるようになる。 1960年 XEVIOUSをみてあまりの綺麗さにゴルフゲームと勘違いする。 1961年 ポケットコンピュータPB-100を買う 1962年 タンディ・ラジオシャック社のTRS-80にあこがれる。 1963年 ベーシックマガジンを毎月買う 1964年 VIC-1001にあこがれる 1965年 コモドール64にあこがれる 1966年 シンクレアZX-81にあこがれる。 1967年 トミーの日本語ベーシック搭載ぴゅう太にあこがれる 1968年 BANDAIのRX-78(パソコン)にあこがれる 1969年 松下のJR-100にあこがれる 1970年 カシオのFP-1100にあこがれる 1971年 東芝のPASOPIAにあこがれる 1972年 日立のベーシックマスターにあこがれる。 1973年 MZ-80でBEEP音を利用した音声発生ソフトを見つける。 1974年 音声合成で「ピンプルパンプルパムポップン、パンプルピンプルパムポップン」と謎の呪文をしゃべらせて悦に浸る 1975年 先輩が日立S1を購入。DUAL-CPUだぜ!と自慢げに話す。 1976年 顧問の先生が自作マイコンを持ってくる。表示はLED16個のみ、入力はトグルスイッチ16個のみ。IMSAIのショボイバージョンといえば分かりやすい 1977年 トグルスイッチをパチパチ倒して入力するプロフェッショナルとなる 1978年 先生がTK-80の後継機らしいトレーニングマイコンを買ってきて、部員で組み立てる。 1979年 すぐに飽きる。 1980年 z80のダンプリストからアセンブリ言語に変換する人間逆アセンブラーの特訓をする 1981年 msxを購入 1982年 300ボーのrs232cカートリッジを購入してパソコン通信開始 1983年 雑誌の記事をみながら1200ボーに改造。 1984年 MIDIカードを記事をみながら作成 1985年 ケーブルを10メートルぐらい長くしたらMIDIキーボードから出る音がビローンビローンと間延びしたスロー再生になり、ケーブル長に限界があることを知る。 1986年 PC-8801SRをかう 1987年 いろいろなゲームを買いまくる。 1988年 pc-8801の新機種が出るたびに買いかえる 1989年 FM-TOWNSを購入。 1990年 TOWNSのMIDIカードを買ってきて電子キーボードを音源にして遊ぶ 1991年 ちょっと真面目にコルグの1Uサイズの音源を買ってくる。 1992年 T-SQUAREのTRUTHを打ち込みで鳴らす。 ------------------------------------------------------------------------- おもちうにょ~ん人生回顧録より。(???w なお、起こった事の年号はうそですが、時系列は間違いありません。 なんでもありな放送枠です。テストでも何でもご自由にお使いくださいませ ま、いろいろ楽しい事が出来たらイイヨネ! 乞うご期待!! 続きは次回の講釈で(西遊記風)